しかし、それをきっかけとして田中さんは少しずつ記憶を取りもどしていった。もちろん、取りもどすと言っても、認知症の場合は時間だけが遡り、記憶が若返るだけなのだが……。
ある時、俺が田中さんに年を尋ねると、
「俺か? 俺は62」と言った。
田中さんは現在87歳だ。記憶の中では25歳も若返っていたのだ。俺は少し、からかいたくなった。
「今、何されているんですか?」
「今? やっと、借金を返し終わって、ホッとしているところだ」
「借金? 田中さん、借金があったんですか?」
俺は驚いて思わず叫んだ。
「おうよ、知り合いの保証人になっちまってよ。工場も何もかも取られちまった」田中さんはよくぞ聞いてくれました、とでも言うように嬉しそうに答えた。
「そうだったんですか……」
「だけどこれからは、こんな他人の葬式の世話なんて辛気くさい仕事は辞めて、この金で遊んで暮らすんだ」
と首からぶら下げている巾着を震える手で掴んでみせた。
「ふーん、田中さん、お金持ちなんですね」
「当りめえだよ、お前。これいくらあると思ってんだよ」
「いくらなんですか?」
俺は尋ねた。
「いくらって……」
そう言うと、急に田中さんは口を噤んだ。
そして急速に火が消えたように無表情になっていった。そしていつものようにまた沈黙の世界に閉じ籠ってしまうのだった。
「……」
俺は小さく溜息をついた。せっかく田中さんと仲良くなれたと思ったのに……と少し残念な気がした。
つづく